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2006年7月13日 (木)

Re: 惡文の群集

数日前に惡文の群集を読んだときの所感。言葉の誤用が頻繁に更新されていたのは知っていたが、惡文の群集を通して読んだのは今回が初めて。

全体として筆者の言いたいことは何となく理解できるのだけれど、いまいち説得力のない文章だった。言葉の誤用は論理の誤りであるには人が何らかの主張をする時、その主張には必ず根拠が存在する。そして、その根拠を提示してこそ、自分の主張が他者から認められるのではないか。とあるが、その指摘はまさに言葉の誤用に当てはまると思う。

言葉の誤用では、言葉のどういう使い方が誤用であるか、あるいは正しいかが書かれている。しかし、どうしてそれが誤用なのか、あるいは正しいのかについてはほとんど一切述べられていない。だから、それは誤用ですと言ってもそれは本当に誤用なの?となってしまう。

言葉は生き物であるについても同様で、筆者が「言葉の意味は時代と共に変る」のではない。言葉に対する、「人々の意識が時代と共に変る」のである。と主張しようとしていることは分かったが、なぜ「言葉の意味は時代と共に変る」のではな言葉に対する、「人々の意識が時代と共に変る」のか理由が述べられていないので、結局「言葉の意味は時代と共に変る」のではない。言葉に対する、「人々の意識が時代と共に変る」のである。という命題が真であるのかどうか客観的に検証できない。だから、とても主観的な文章だという印象が強く残った。

言葉は言葉として一つの独立した生き物であり、人間の肉体の一部でも、精神のそれでもない言葉の意味は未来永劫変る事はなく、発生時の言葉の意味がその侭、永遠に存在し続けるとある。では、人間が作り出したコミュニケーションの手段に過ぎないはずの言葉 (少なくとも自分はそう思っている) がどうして人間と独立したのか。一体、どうやってそれを確認し得たというのか。

なるほど、言葉が人間と独立していて、不変かつ普遍の存在であるならば、言葉の誤用を指摘するのに一々理由を説明する必要は無いかもしれない。単にこの言葉の正しい意味はこうだからそれは間違っているというだけですむだろう。でも、本当に言葉は不変で普遍の存在なのだろうか。果たして言葉が不変・普遍ならば、なぜ同じ言葉でも国語辞典によって説明が異なっていたり、古語辞典というものが (現代語の) 国語辞典とは別種の辞典として存在していたりするのだろうか。

いづれにしても、それぞれの主張について納得のいく根拠が説明されていなかったのがとても残念。言葉は生き物であり人間とは独立していると言う考えは自分の考えとはまるで違っていたので、その点はとても興味深かった(し、それだけにいっそう残念だった)。今後の改訂に陰ながら期待している。

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