ウィニー云云
裁判の争点は著作権法違反幇助の有無だったのだから、無罪判決には頷ける。しかしながら、ネット上のあちこちでも見られる、技術の存在価値は中立でありあくまで使う人の責任であるという主張には首を傾げざるを得ない。
確かに P2P 技術自体は開発・発展の余地があり、将来的にも更なる応用が期待される技術である。しかし、ウィニーは所詮数ある P2P アプリケーションの一つでしかない。価値の中立性を云云する人は、P2P 技術全体の価値を、単なる一アプリケーションの価値と同列に扱ってはいないだろうか。P2P 技術自体は中立であるにしても、それを応用してソフトウェアを開発するに当たっては製作者の開発動機や意図がある筈だ。その動機や意図は、P2P 技術の理念と合致していたと言えるのだろうか。
技術の研究にしてもアプリケーションの制作にしても、それには必ずそれをする動機・目的がある。その動機・目的は、多かれ少なかれ、既存の技術やアプリケーションでできないことをできるようにしそれを何らかの形で役立てるという目標に通じている筈だ。何の役にも立たないものや、人に害ばかりをなすものは作ってもしょうがない。だからこそ、ウィニーを作った動機・目的が何だったのかを問う意味がある。ウィニーはどのように役に立つはずだったのかと。
庖丁で人を刺し殺したり自動車で人を轢き殺したりする事件が発生したら庖丁や自動車の制作者が罪に問われるのかという譬え話を持ち出す人もいるが、この譬えは果たして妥当だろうか。なるほど庖丁は料理で食材を切るための道具であり、人を刺すためのものではない。道具の目的外使用は使用者の責任であるとの主張は妥当だろう。しかし、この主張は、人を殺傷することを目的として作られる日本刀や拳銃が銃刀法による規制の対象となっていることから目を背けてはいないか。道具の存在が悪かどうかは、製作者の意図のみならず、その道具の様態や実際の用途などにも基づいて総合的に判断されるものだ。庖丁も日本刀もどちらも刃物という技術の応用だが、両者を同列に扱うべからざる理由は確かにある。
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