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2010年5月24日 (月)

ソフトウェアの開発者と利用者の話 その 3

――斯う云ふ事を書くと、プログラマの人は腹を立てるだらうか。

プログラマを無闇に刺激して怒らせるとユーザのいうことを聞いてくれなくなるから、やめたほうがいいよ。

というか、わざわざプログラマを怒らせるようなことをいう人の要望をプログラマは聞きたくなるか、という話。

ユーザが自分の要求をプログラマに実現させるためには、プログラマに対してどう働きかけるべきか。という観点で考えると、プログラム (あるいはプログラマ) の悪い点をただ批判することは必ずしも最適解ではないよね。

自分が人間未満だと思われているのならば、それらしく振舞っていれば自分の要望も少しは叶えてもらえるかもしれない。無闇に盾突いて逆鱗に触れると……。

プログラマにプログラムに関する自分の要求を聞き入れてほしいのか、それともプログラマに見下されるのが嫌でプログラマを改心させたいのか、どっちなのか。


MicrosoftのWindowsに不満を持つユーザが、同等かそれ以上の機能のOSを一人で作り上げる事は不可能だ。

一人じゃ無理なら、仲間を集めればいいじゃない。Linux だってもともとはリーナスが一人で作り始めた OS だ。

そもそも、Windows に不満があるからといって、必ずしも新しい OS を作り上げなければその不満が解消されないこともあるまい。実際に不満があるのは、Windows の一部であるファイラだったりテクストエディタだったりするのだろう。

「フリーウェアでは作者に文句を言へない」→「有償のプログラムを使へよ」式の「論理」は、ただ單に批判を封じ込めるだけの爲に言はれてゐる。なぜなら、有償のプログラムであつても、多くの場合、ユーザは文句を言ふ事が出來ないからだ。

Microsoftに文句を言つて自由にWindowsやOfficeの仕樣を變更させたユーザを見た事がない。

マイクロソフト製品のユーザは世界中にたくさんいるのだから、社が相手をするのは一人一人のユーザではなく集団としてのユーザたちになる。ユーザ各個人の文句なり要望なりは当然集団の中に埋没してしまう。自由にWindowsやOfficeの仕樣を變更させたユーザが個人として存在しないのは当然だ。一方で、その集団の不満や要望の傾向が社の意思決定に影響を及ぼすことはある。

プログラマに個人として相手をしてほしいのならば、ユーザはただ一人のユーザあるいはせいぜい何人かいるユーザのうちの一人でなければならない。あるいは、ユーザ集団の中でも特に抜きんでて重要視される存在になるか。


ソフトが無償か有償かということよりも、開発者が何のためにソフトを作って公開しているのかということを利用者は気にすべきものだろう。商売としてソフトを売っている企業と、たまたま自分用に作ったソフトをフリーウェアとして公開している個人開発者とでは、利用者に対する意識は異なるものであり、それは開発者が利用者のいうことをどれだけ聞いてくれるかということに直結する。個人開発者たちの中でも、自分のためにソフトを作っているのか、他人に使ってもらうために作っているのかで、意識の違いは大きい。利用者としては、どの開発者なら自分の要望を聞いてくれそうなのかよく吟味して選ぶ必要がある。

で、最初の話に戻る訣だ。利用者を人間未満の存在だと見下しているような奴に頼み込んだところで、それは相手が間違っている。

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