読書感想文: The Righteous Mind / 社会はなぜ左と右にわかれるのか
『社会はなぜ左と右にわかれるのか——対立を超えるための道徳心理学』(原題 The Righteous Mind: Why Good People Are Divided by Politics and Religion、Jonathan Heidt 著、高橋洋訳) といふ本を読んだ。
この本がどういふ内容の本なのかといふことについては適当にネットを検索すれば他の人が書いた書評が複数見付かるだらうからそちらに譲る。他人と同じことを書くよりも、俺個人がこの本を読んで何を思ったかを記した方が意義があらう。
人間を「理系」と「文系」の二元論で分けるのはあまり正しくないだらうと俺は思ってゐるが、とは言へ俺は大学(院)で理学系の研究をしてゐたので一往理系の人間といふことにならう。特に俺が研究してゐたプログラミングにおける型システムは、論理学や数学と同じく議論の妥当性のほぼ総てを論理が司ってゐる世界だ。論理的な議論といふのは、議論の対象となってゐる物事が何なのかを先づ公理として定義し、そこから (研究成果として意義のある) 対象の性質・特徴を定理として証明するのが基本的な構成である。
ネット上で (といふか Twitter や Togetter で) 道徳や政治や宗教に関する論争をよく見掛けるが、彼らがやっている議論は果たして論理的なのかといふことが俺にとってずっと疑問だった。どうして意見や価値観の相違が発生し論争になるのだらうか。もし我我がみな単一の公理を議論の前提として認め共有することができてゐたとしたら、意見の相違は起きるはずがない。しかし実際にはたくさんの人が「戦争は悪である」とか「いや戦争は必ずしも悪くない」とかの結論を主張してゐる。それは、公理から結論を導く証明が誤ってゐるからなのか? それとも公理自体に矛盾があるのだらうか? あるいは皆がおのおの異なる公理を前提としたまま話してゐるからなのか? ……といふやうなことを考へながらネット上の議論を眺めてゐても、議論が噛み合はない理由を論理的に考察して訂正しようとする人はあまり見られない。
数学には、世界中の数学者が知ってゐて同意してゐる定番の公理や定理が (たくさん) ある。例へば自然数の定義は何かと問へば普通の数学者はペアノの公理の名を挙げるし、自然数の加算が結合法則を満たすといふ定理に異を唱へる数学者はゐない。ところが道徳や政治の議論をしてゐる人人の間では、そのやうな定番の公理・定理がある様には見えない(*1)し、それを作って普及させようとする人がゐる様にも見えない。かといって、自分の前提としてゐる公理をきちんと定義して他の人に説明し、それに基づいた論理的議論を展開してゐる人もまた見当たらない。
では、道徳や政治や宗教の論争をしてゐる人人は論理的な議論のできない人たちなのか? そもそも人人は議論を論理的に進めようとはしてゐないのか? そんな議論に果たして意味はあるのか? ……などと募る俺の疑問に答へてくれたのがこの本だった。
この本を構成している三つの部のうちの第 1 部で提起されるまづ直観、それから戦略的な思考
といふ道徳心理学の第一原理がその回答だった(*2)。道徳的な判断は主に直観的に行はれるのであり、理性的な思考に先立つといふ話である。筆者は、直観的に下された判断を正当化するために後からその理由が思考によって導き出されるのだとも言ふ。自分の挙げた理由説明が非論理的でも、人はしばしばそのことに気付かないばかりか、自分の言ってゐることが論理的だと信じてゐたりする。要するに、人間は必ずしも常に論理的な考へ方ができる動物ではないといふことだ(*3)。
第 1 部では、人に意見を変へさせたいなら先づ理性でなく直観に訴へよといふ話も出てきた。俺はこれまで、論理的な議論だけがまともな価値のある議論であり、人はそのやうな議論の仕方を目指すべきものだと思ってゐたが、考へを改めることにした。人を説得するには、言ってゐることが論理的に正しいかどうかではなく、相手の直観に響くかどうかが重要なのだ(*4)。
論理的な議論が無意味だとまで言ふ積りはない。ただ、論理的な思考には時間が必要だ。フェルマーの最終定理を証明するのに数学者たちは 300 年以上の歳月をかけた。一見簡単に見える問題でも、それを人間が論理的に証明するのが容易でないことはしばしばある。よって、討論会などで相手の主張にすぐに反論を挙げられなかったとしても、直ちに相手の主張が論理的に正しいと考へるべきではない。むしろ、言はれたことにすぐに反論しようとすれば、直観に従って非論理的な思考を展開してしまふだらう。もちろん、非論理的な反論が相手の直観に響く場合もあらうが、一方であなたの反論は非論理的だ
などと言ひ返してくる輩には要注意といふことだ。
また、論理的に議論をするには (当たり前のことであるが) お互ひに論理を理解できるだけの頭脳が必要だが、論理的な思考が得意でない人もこの世にはたくさんゐる。そのやうな人を「間抜けだ」「バカだ」などと罵る人を見掛けることもあるが、彼らだってこの世に生まれた人間として人格と人権を持ってゐる。論理が通じなかったとしても、その人たちの直観とそれが下した判断まで無下に否定すべきでないと俺は考へる様になった(*5)。
第 2 部ではリベラルな人と保守主義な人とでは気に掛けてゐる道徳的着目点の範囲が異なるといふ話が出てくる。その着目点は六つの道徳基盤として体系化され、それぞれ元元人類が進化の過程で会得してきたものなのだと説明されてゐる。つまり人が特定の場面に遭遇した時にこれら道徳基盤が刺戟されるのは (ある程度は) 本能的な反応であり、理性によって完全に統制されるべきものではないと俺は理解した。よって俺はこの六つの道徳基盤を当座の道徳に関する公理の候補と見做すことにした。ただし、人によって食べ物の好みが異なる様に人によってそれぞれの道徳基盤に対する反応も異なるから、人によって公理は異なるといふことになる。
第 3 部では人が集団を志向することの理由やその効果が述べられてゐたが、内容は科学的に実証された話といふよりは、筆者がこれまでに観察してきたことをうまく説明する仮説であると感じた。いづれにしても、一人暮らしをしてゐて普段友人や隣人と付き合ふことも多くない俺にとっては、集団が脳に与へる影響の道徳的意義は実感されにくかった。第 2 部の話と合はせて、自分よりも保守的な人がどんなことを感じてゐるのかが何となく解ってきた。
一通り本を最後まで読んだけれども、俺にとっては第 1 部のまづ直観
の原理が最も衝撃的だった。俺がこれまで見掛けてきた、必ずしも論理的でない論争を繰り広げる人たちの行動を見事に説明してくれた。今後俺が論争を見掛けた時に (あるいは論争に加はる時に) これまで以上に冷静かつ分析的に人人の言ふことを解釈できる様になったといふ自信を感じてゐる。
*1: それどころか研究者たちは「道徳とは何か」といふ最も基本的な事柄すら公理化できてゐない様に見受けられる。
*2: この本の思考
は reasoning
の訳である。単に考へることを意味してゐるのではなくて、自分の下した判断の理由を説明することを意味してゐると捉へるべきなのだらう。
*3: 俺のこの文章を読んだだけではこの話はとても信じられないだらうから、本を読んでください。
*4: 論理的な話が絶対に直観に響かないとは言ってゐない。
*5: この考へ方自体はもしかすると〈ケア〉道徳基盤に基づいたリベラルな価値観なのかもしれない。
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